オーディオファンから絶対的な支持を得るオーディオ評論家、麻倉怜士のセレクト企画。今回は、ワーナークラシックスが世界に誇る豊富なカタログから「ベートーヴェン名演奏・名録音」と題して珠玉の作品をセレクト。「”ハイレゾ運命”華麗なる饗宴」、「ピアノ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲編」、「室内楽曲編」、「器楽曲編」のテーマに沿ってピックアップ。是非この機会に、オーディオファン必聴のハイクオリティな音と超一流の演奏をご堪能ください。


ワーナー・クラシックスには、イギリスのEMI(1931年~2012年)、ドイツのTeldec(1950年~2001年)、フランスのErato Disque(1953年~、休眠を挟んで現在は活動中という)20世紀のヨーロッパの名門レーベルが蝟集している。さらに「ライジングスター」という新人発掘、プロモーション活動も積極的に行っているのも注目だ。

Qobuzには、ワーナー・クラシックスの無数のハイレゾアルバムが上がっているが、あまりに数が多すぎ、何から聴けばよいかが、なかなか分からないだろう。そこで、これから私がセレクトした名アルバムをご紹介しよう。


”ハイレゾ運命”華麗なる饗宴

ジョン・バルビローリ指揮ハレ管弦楽団。冒頭動機をしっかりとマルカート的に刻む、大時代の巨匠的楽風だ。快適な速度感にて、あくまでも自然体で進行。少しアンサンブルに乱れがあっても構わず進み、歌心を加える。特にソロ楽器をたっぷりと歌わせることでは、本演奏の右に出るものはないだろう。弦の抑揚と、カンタービレ豊かな表情。木管と弦の間の暖かなやり取り……。5:09のオーボエソロのアゴーギクたっぷりな濃密な歌いは、第1楽章の白眉だ。

第2楽章は、さらにこってりと濃密に表情を与える。チェロの歌いの大きな振幅、ヴァイオリンのすべらかな潤い感。第3楽章ではヴァイオリンの高弦にさらにグロッシーさが加わる。第4楽章のドミソの凱旋は、第1楽章冒頭のように、ひとつひとつをしっかりと堂々と刻むが、その後の速いパッセージでは、レガートたっぷり歌う。アンサンブルに乱れがあっても、歌はそのまま続く。

ウェーバー:歌劇『オイリアンテ』序曲は、さらにロマンティック。弦の艶がなまめかしい。モノラル録音だから当然、音像はセンターに集中するが、ステレオスピーカーで聴くと、ファントムセンターにアンビエントが付与されているような空間感、臨場感も感動的だ。1947年5月19日、EMI RECORDING STUDIO・第1スタジオで収録。


アンドレ・クリュイタンス指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団。冒頭動機は、この時代のスタンダード的にひとつひとつを分かち書きするものだが、決して重苦しくはなく、爽やかで闊達、そして生命力に満つる。実に新鮮な『運命』だ。

弦、管、打の各楽器の表情が鮮明に、クリヤーに、細部まで丁寧に彫塑されている。ベルリン・フィルらしい音の安定さ、重層感に加えて、フレーズのあちこちで、ブリリアントな輝きが聴ける。木管の上質さ、金管の緻密な鮮鋭さ、第1ヴァイオリンの倍音感……など、聴きどころも多い。各声部で重奏的な合奏が連なる部分でも、各部がクリヤーで、音の重なり具合も明瞭だ。形容はやはり「みずみずしい」---だ。

録音会場の教会の空間感がとても豊か。第1楽章の5:17からのオーボエソロは、長い残響を伴いながら、教会のアンビエントに美しく拡がっていく。奥行き方向の位置関係も弦の奥に木管、さらにその奥に金管と、明瞭に距離が聴ける。これほどの清涼な音がこの時代に録音されていたことに驚かせられる。ピラミッド的で重厚なドイツ・グラモフォンとは明らかに違う、EMIならでの明瞭で美的、そして上質なサウンドだ。

1958年、ベルリン、グリューネヴァルト教会で録音。2017年に、フランスの東部のアヌシーはStudio Art & Sonにて、オリジナルテープから96kHz/24bitに変換された。


アンドレ・プレヴィン指揮ロンドン交響楽団。堂々たる明晰な『運命』だ。悠々としたインテンポにて、器量が雄大。速いパッセージでも、一音一音をしっかりと立てて進行する。重心は低いが、ドイツ的な峻厳さとも違う、ジェントルで、すがすがしい英国的なベートーヴェン。第2楽章はロマンティックな夢見る雰囲気。第3楽章は、豊潤なホルンが印象的。

音質も、優れる。ホールトーンが豊かに混ざるが、オーケストラ音はとても明瞭で、パート分離もいい。ヴァイオリンが左右配置で、第1と第2の掛け合いがステレオ的に鮮やかだ。弦とホルンの合奏では、手前左の弦、奥の右上のホルンという斜め方向の立体的な位置対比がダイナミックだ。ホルンの鳴らしも強い。1973年1月10-11日録音、キングズウェイ・ホールにて録音。


ダニエル・バレンボイム指揮ベルリン・スターツ・カペレ。優しい『運命』だ。輪郭を立てずに、アールをつけているので、かぢかぢの楷書でなく、しなやかな草書で描かれる。

フレージングは基本レガートだ。第1楽章、冒頭動機はしっかりと刻むが、それは運命に真正面からあがらい、激しく闘争するという風ではない。むしろ、運命をそのまま受け容れるとのメッセージのようだ。バレンボイムの優しい眼差しは4:53のオーボエソロに、表れている。テンポを落とし、弦楽から柔和にバトンタッチされる。明確に分断し、はっきり、くっきりとメリハリを付けて、オーボエに渡す演奏が多い中で、異例のソフトさだ。オーボエソロも、柔らかく丁寧。しかし、第1楽章もフィナーレに入ると、闘争心が目覚めてきたような激しさも。

そうした意味で、もっとも本演奏の本領が発揮されるのは、優しい調、変イ長調の第2楽章だ。人生を肯定するような暖かく、人間的な眼差しにて、穏やかに時が過ぎていく。輪郭の丸さ、弱音の繊細さ、歌いのジェントルさにも感動。第4楽章の勝利の凱歌も重厚に、堂々と同時に暖かな温度感も奏される。音調は低音が支えるピラミッド型。ディテールまで突っ込まずに、マッシブな響きを丁寧に聴かせている。1999年5月~7月、ベルリンで録音。


ピアノ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲編

フルトヴェングラーとエトヴィン・フィッシャーは、20世紀中葉の最高のベートーヴェンコンビだった。指揮もピアノも明確なベートーヴェン的構築で築きあげられ、フィッシャーの前進力にフルトヴェングラーがある時は従い、逆にフルトヴェングラーがあるフレーズではリードするという、エールのやり取りがスリリングだ。モノラル録音だが、レンジが比較的広く、伸びやかで、緊張感の中にも清涼感が感じられる爽やかな音調。ピアノの透明感が高く、クリヤーで、力感が十分だ。1953年2月19~20日、ロンドンのEMIレコーディングスタジオで録音。2019年、Studio Art & Sonによる24bit/192kHzリマスター。


冒頭のティンパニ連打から、この演奏、録音はただものでないという緊張感が伝わってくる。フランス国立放送管弦楽団の音は典雅で、繊細。ヴァイオリンが入ると、オイストラフのこの曲に対する暖かな眼差しや精神性の気高さが伝わってくる。ロマンティックや華美に走らない、峻厳で清涼なベートーヴェンだ。第2楽章のバリューションの悠々迫らずのテンポ感は、聴く者を幸せにしてくれる。第3楽章のカデンツァも圧倒的だ。

最近のデジタル録音のハードな鮮明さと異なり、暖かく、音源全体を包み込むようにゆったりと再生されるアナログサウンドは、とても心地好い。ソノリティも暖かく、広い音場の中を温度感の高い音の粒子が飛翔する。粒立ちはノングレア系で、梨地的な上品さ。フランスのオーケストラらしい優しい色彩感が愉しく、ヴァイオリンも音粒子を尖らせず、まろやかに描く。1958年、録音。2017年に、オリジナルマスターテープより24bit/96kHzリマスター。


名手、ニコラ・アンゲリッシュが弾くのは1892年製のプレイエル。「ベートーヴェンがこの世を去って65年後、1892年に製作されたコンサート・グランドピアノは、ベートーヴェンの時代の響きと精神を尊重した、現代的な音色も持っている」と、アンゲリッシュは語っている。

プレイエルの音は華麗にして、たいへん色彩的だ。現代ピアノのマッシブでハイコントラストな鮮鋭音色に比しても、一歩もひけをとらない、高雅にして艶やかな響き。豊潤な倍音が放出され、彩りが鮮やかな、典雅さと華麗さを兼ね備えた魅力的なサウンドだ。確かにベートーヴェンの時代のピアノフォルテには、この彩度感はない。アンゲリッシュの選択は誠に正しい。

オーケストラはメリハリの効いた進行感、引き締まった緊張感……などピリオドの雰囲気が横溢しているが、ホールの響きが柔和なので、それが尖鋭な音に聞こえず、耳に心地よい佳麗なサウンドとなる。ライブだが、スタジオ的な明瞭さと会場録音らしい豊かなアンビエントが両立している。オーケストラはロランス・エキルベイ指揮のインスラ・オーケストラ(ピリオド楽器)。パリ郊外のブローニュ=ビヤンクール、セガン島の複合文化施設「ラ・セーヌ・ミュジカル」で、2018年3月11~12日にライヴ収録。


前項に述べたニコラ・アンゲリッシュのベートーヴェン:第4協奏曲はたいへん素晴らしかったが、同じ1892年製プレイエルを弾き、同じロランス・エキルベイ&インスラ・オーケストラ、そして同じパリ郊外のブローニュ=ビヤンクール、セガン島の複合文化施設「ラ・セーヌ・ミュジカル」でのライブだ。第4協奏曲は2018年3月だが、本アルバムは2017年4月と2018年2月に録音。

1892年製のプレイエルプレイエルはたいへん魅力的だ。あるときは慎ましげに、ある時はブリリアントにカラフルに……と、弾き手の思いをそのまま音にしてくれる。『ヴァイオリン、チェロ、ピアノのための三重協奏曲ハ長調』では、ソリストのアレクサンドラ・コヌノヴァ(ヴァイオリン)、とナタリー・クライン(チェロ)がガット弦とクラシカル・ボウで、ピリオド流を徹底し、明晰な音色感を実現。録音も優秀。ピアノ、合唱、オーケストラという難しいバランスを上手くクリヤーしている。


室内楽曲編

カピュソン兄弟&フランク・ブラレイによる、ベートーヴェンのピアノ三重奏曲『大公』と『幽霊』。互いを思いやる、暖かな眼差しの緻密なアンサンブルだ。これまでデュエットでは、ブラレイを軸にルノー・カピュソンとのヴァイオリン・ソナタ全集、ゴーティエ・カピュソンとのチェロ・ソナタ全集があり、これらは文字通り火花がスパークする、単刀直入のスリリングなベートーヴェンを聴かせている。一方、3人が集まると、互いを尊敬し合い、ハーモナイズさせるようなアンサンブルマインドが効くようだ。録音も演奏と同じで穏やかで、優しい音調。鼎談的バランスが絶妙だ。2019年3月11~13日、パリのラ・セーヌ・ミュージカルStudio RIFFx1で録音。


20世紀を代表する弦楽四重奏界の名門、イタリア四重奏団は、1945年に北イタリアのレッジョで結成され、1980年に高齢を理由に活動を停止した。1967年から1975年にかけてベートーヴェンの弦楽四重奏曲の全曲録音を完成させたのが録音史上の特筆だ。本アルバムは1956年のモノラル録音。切れ味が鋭く、音楽的エネルギーを凝縮したベートーヴェンだ。歌心が鮮明に表出され、響きのソノリティもとても豊かだ。モノラルだから、音の塊感がなおさらに感じられる。オリジナル発売以来のデジタル化による復活だ。


可愛い小曲を集めたアルバム。あの謹厳実直で、深い精神性の塊のようなベートーヴェンにもこんな楽しい側面があったと、思わずほっこりしてしまう。舞曲が26曲も収録されているが、19曲目の『12 Contredanses, WoO(作品番号のない作品) 14: No. 5 in E-Flat Major』は、あの交響曲第3番『英雄』第4楽章のテーマだ、調も同じ変ホ長調。もともとバレエ音楽『プロメテウスの創造物』の終曲から転用したもの。最後の24曲目『12 Contredanses, WoO 14:No. 12 in E-Flat Major』はクライスラーの『ベートーヴェンの主題によるロンディーノ』の原曲であろう。楽壇ではWoO.41『ロンド』が原曲とされているが、WoO 14の『コントルダンス』説も有力だ。これらの佳曲を演奏しているドイツの楽団、フィルハーモニア・フンガリカは、すでに2001年に解散している。

録音はたいへん素晴らしい。1975年のアナログ録音だが、最新のデジタルにもまったく引けを取らない。ひじょうに透明度が高く、音場の空気が澄んでいる。小編成なので、楽器ごとの鳴りっぷりもよく解像している。特に弦の倍音の多さは、感動的だ。左右の拡がりはとても豊かで、奥行き方向の距離感も明確に分かる。繊細な音の強弱も細やかに表現される。最新録音でもここまでクリヤーで、粒立ちが細かな録音は稀有だ。1975年3, 10月にドイツ・ノルトライン=ヴェストファーレン州マールにて、録音。


いまさらだが、レ・ヴァン・フランセは超上手い。管王国フランスの伝統を受け継いだ管楽器のスーパースターたちの合奏は、ほんとうに舌を巻く。完璧なテクニック、完璧な演奏、完璧なアンサンブル--まさにウルトラ名人芸だ。加えて、音質も格段の良さだ。音場がひじょうに澄んでおり、眼前の演奏姿。各楽器の音色もきれいに捉えられている。当然、ファントム的に2つのスピーカーの間に定位置を持っているわけだが、その音像位置が揺るぎなく安定し、まるでそこに実際に楽器が存在するかのような、換言すると、あたかも空間の一点から音が出てくる感覚だ。この素晴らしい音が、44.1kHz/24bitというのも、意外な驚き。2016年1月と4月、ミュンヘンのバイエルン・ミュージック・スタジオで録音。


画期的なベートーヴェンだ。「画期的な」という意味は多数ある。まず、いま世界でもっとも注目されているカルテット「エベーヌ弦楽四重奏団」の弦楽四重奏曲全曲アルバムという音楽的な側面。1999年、フランスのブローニュ=ビヤンクール地方音楽院在学中の4人によって結成された弦楽四重奏団だ。Ebeneとは弦楽器の指板の材質の「黒檀」の意味。2004年に名門、ミュンヘン国際音楽コンクールで優勝し、一躍注目を集めた。その後、フランス作品、ブラジル作品、モーツァルト作品など話題のアルバムを続々、リリースしてきた。

弾力感とテンションの高い音楽性にて、作曲者の世界を情熱的に再構築してきたエベーヌ弦楽四重奏団の大プロジェクトが『ベートーヴェン・アラウンド・ザ・ワールド』。ニューヨークのカーネギー・ホールからの「2020年にベートーヴェン:弦楽四重奏曲の全曲演奏会を開催したい」 との提案に、「この際、世界で演奏し、録音して遺すプロジェクトにしよう」と発展。

2019年4月から2020年1月まで、北と南のアメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、アフリカ、インド、アジア、ヨーロッパの各地でワールドツアーを敢行した。各場所の最終公演をライヴ録音した。このうちフィラデルフィア、ウィーン、東京、サンパウロ、メルボルン、ナイロビ、パリでの録音がアルバムに採用された。つまり本サウンドには、演奏音だけではなく、会場の音響も同時に収載されているのである。そうした観点で会場別に聴いてみよう。

①フィラデルフィアのキメルセンター(2019年5月6日)での弦楽四重奏曲第1番ヘ長調Op.18-1。直接音がクリヤーに収録され、剛毅で音楽的な表情がディテールまで、こと細かに聴ける。音的には切れ味がよく、立ち上がり、立ち下がりが俊敏。響きは比較的少なく、直接音の明瞭度が高い。ステレオ感も明確。

②ウィーンのコンツェルトハウス・モーツァルトザール(2019年6月11日)での弦楽四重奏曲第7番ヘ長調Op.59-1、『ラズモフスキー第1番』7番。ひじょうに響きが多く、深く、楽団のサイズも大きく聞こえる。響きがスピーカー面だけでなく、手前方向にも拡がってくる。発音に豊かなソノリティが加わって、耳に到達する。実に臨場感が豊か。

③東京のサントリーホール・ブルーローズ(2019年7月16日)での弦楽四重奏曲第9番ハ長調 Op.59-3『ラズモフスキー第3番』。近接マイクでの収録にて、ひじょうに直接音が明瞭で、クリヤー度はとても高い。音像の輪郭も明晰。会場の響きは比較的少なく、響きの透明度は高い。そのため、エベーヌ弦楽四重奏団が持つ固有の音色感がより明確に識れる。

④サンパウロのサーラ・サンパロウ(2019年9月18日)での弦楽四重奏曲第6番変ロ長調Op.18-6。響きは比較的少ない。ダイレクトな録音スタイルで個個の楽器の存在感が明確。音像も輪郭もとてもしっかりとしている。剛性の高い空気感だ。

⑤メルボルンのリサイタルセンター(2019年10月30日)での弦楽四重奏曲第2番ト長調Op.18-2。響きは少ない。音色的にはグラテーションが繊細で、彩りが高い。左のヴァイオリン、センターのビオラ、右のチェロと、配置もきわめて明確。音場の透明度も高い。オーディオ的にはもっともハイレゾンらしい音調だ。実に鮮明でハイテンションである。

⑥ナイロビのアリアンス・フランセーズホール(2019年12月8日)での弦楽四重奏曲第4番ハ短調Op.18-4。直接音と間接音がよい案配でバランスしている。ソノリティは豊かで、会場感もリアルだが、楽器発音もしっかりと捉えられている。音の粒子のスピードも速い。剛毅でハイレスポンス。エベーヌ弦楽四重奏団の情熱的な歌いが濃密に伝わる。

⑦パリのフィルハーモニー・ド・パリ(2020年1月27日)。での弦楽四重奏曲第3番ニ長調Op.18-3。透明度が高く、繊細。響きもそれほど過剰ではなく、直接音は細身で繊細、表情が豊か。

まとめると、音楽性とオーディオ性のどちらも堪能できる傑作ハイレゾだ。


器楽曲編

鬼才ピアニスト、ファジル・サイが、ベートーヴェン生誕250年企画として新録音したピアノ・ソナタ全集。何回もファジル・サイのコンサートに通って、あまりのハイテクに感心するばかりであったが、今回の演奏も素晴らしい。

ファジル・サイはこう語っている。「今回、私以外には成しえないベートーヴェンが表現できたと思います。まるでオーケストラを聴くように、私自身の心の中の声も含め“指揮をするつもり、また過去の優れた指揮者の音を再現するかのように”全ての音を表現しました」。

ひじょうにドラマティックだ。ベートーヴェンの音楽はこれほどの抑揚とロマンがあるのだと、ピアノを通じて語りかけている。「ロマン性と演出性」は古典の典型の第1番であっても感じられることだが、第8番『悲愴』は、まさに得手に帆を揚げた、ロマンティシズム。第2楽章の静謐な思い、第3楽章の軽妙な哀しみ……と表情が濃い。23番『熱情』のまさに熱き情熱に溢れたハイテンションさも聴き物だ。録音はそんなメッセージ性と記号性の多いファジル・サイのピアノを、生成り的に素直に捉えている。ザルツブルク・モーツァルテウムで録音。


ベルリン・フィルの第1コンサート・マスターにして、世界的に活躍している樫本大進と盟友のコンスタンチン・リフシッツのコンビによるベートーヴェン。モーツァルトのソナタとは異なり、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタは、ヴァイオリンとピアノの関係が対等だ。だから、誰と組むかは極めて重要なのだ。ふたりは2010年、2012年の日本ツアーでオール・ベートーヴェン・プログラムを演じ、何回もの実演を経てうえでのレコーディングに臨んだ。明確に輪郭を持ち、明晰な楷書のスタイルで明瞭にベートーヴェンを描く姿勢は、両者に共通している。

音はまさに「珠玉」という形容がふさわしく、光輝く。2012年の録音はまるで、昨日録られたような瑞々しくも新鮮な音だ。ピアノには適度なアンビエントが与えられ、ヴァイオリンよりホールトーンが豊かだ。響きをたっぷり含んだリフシッツのピアノに乗った樫本の名器グヮルネリンは対照的にまさに眼前の鮮明さ。響きより直接音が主体。だから、ひじょうにディテールまで刻明な表現が聴ける。


ゴーティエ・カピュソンとフランク・ブラレイというフランスを代表するチェリストとピアニストのコンビによる、ベートーヴェンのソナタ&変奏曲集。初期、中期、後期とベートーヴェンの人生のパッセージを辿る演奏と録音だ。

『第1番ヘ長調』と『第2番ト短調』は、ベートーヴェン26歳の快活な作品。音楽的エネルギーと推進力な溢れた、まさに若さを謳歌する進行力だ。『第3番イ長調』は作品自体のスケールが大きく、ミキシングでの音調設定も第1番、第2番と少し異なり、力強く、音色感や輪郭を明確にくっきりと表出する。響きのなかに、直接的な音像が明瞭になり、輝きも増す。フランク・ブラレイの大胆で奔放なピアノのブリリアントさも聴きどころ。『第4番ハ長調』と『第5番ニ長調『のトーンは、初期作品の質感を持ち、ソノリティが豊かで、輪郭はジェントルだ。音場での音像位置は統一され、センターに手前にチェロ、少し下がってピアノが位置し、響きが豊潤。

ベートーヴェンを正座して聴いた後は、アンコールピースのような『魔笛からの7つの変奏曲と12の変奏曲』、『マカベウスのユダの変奏曲』が、安寧な気分にさせてくれる。2016年3月、ドイツ、バイエルン州のエルマウ城で録音。


現代を代表する名ピアニストのベートーヴェン最後の3つのソナタ。ひじょうに明晰なピアニズムで、対位法による左手と右手で紡ぎ出される各声部は、どんなに音を重ねても、そのレイヤーのひとつとひとつが解像度高く、浮かび上がる。それらが、楽曲構成の上で、どれほど重要な要素であるかが、まさに生きた楽理教科書のように、ヴィヴットに呈示してくれる。その上で、もっともフィーチャーされる主題が明瞭に歌われるのだから、何重にもベートーヴェンを堪能した気分になる。

『第31番』第1楽章の鮮烈な幽玄さ、第2楽章のクリヤーな諧謔感、そして何より第3楽章のフーガは、まるで各声部に向けてスポットライトを個別に照射し、さらにそれらがひとつに統合されるような、個と全の対比と融合が堪能できた。第2フーガ直前の和音連打は雄暉にして、恐ろしいほどの凝縮力だ。『第32番』第2楽章のジャズ部は、軽妙で宙を舞うようなスウィング。録音も素晴らしい。高解像度で、圧倒的な明晰さというタローの美点を、余すところなく、もの凄くディテールまで、ありのままに伝えている。


ワーナー・クラシックスが推進している新人プロモーションの「ライジングスター」プロジェクトからのベートーヴェン。2010年、ルガーノの「マルタ・アルゲリッチ・プロジェクト」でアルゲリッチに才能を見出された、1991年ミュンヘン生まれのゾフィー・パチーニ。ひじょうに器量が雄大で、推進力が強靭な見事な『ワルトシュタイン』。前向きにぐいぐいと曲を引っ張っていく、傲慢な程の自信は若さの特権だ。曲にアクセントとメリハリを与え、楷書的な筆法で、くっきり、鮮明に描く。第2楽章の夢のような減和音のサウンドも幻想的。

録音も素晴らしい。2チャンネルのセンターに大きなピアノ音像が睥睨する雄大な音場。音の輪郭もディテールも明確で、音色の細かな綾も見事に捉えられている。2016年3月21~24日、ブレーメン放送ホールで録音。